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postheadericon 103 高須神社

先日、私は大阪市内から堺市内にかけて走っている阪堺電車(チンチン電車)の大和川から南へ堺市内に入って2つ目の、高須神社駅に降り立っていた。
「駅」といっても、駅舎も屋根とベンチがあるだけの、囲いもなにもないもちろん駅員もいない、昔の市電の停留所とあまり変わらないところだが、最近はこれらもみな「駅」と呼んでいるようだ。
時は平日のお昼前であったが、降りたのは私一人で乗る人もなく、たった1両の路面電車は、街の裏通りの感じの専用軌道部分を、ガタゴトと自己主張をしながら遠ざかつて行った。

50年ぶりに通学路を訪問

実は私は、このもの静かな場所に立つのは50年ぶりのことになる。私は南海電車高野線浅香山駅前にある、堺市立商業高等学校に通学していた当時、登校は天下茶屋駅から高野線の各停に乗り、下校は友達の関係でよく阪堺線を利用していた。学校から西へ直線コースで約15分位か、化学工場が垂れ流す汚水の異臭が漂うドブ川を渡ってしばらく行くと、高須神社駅に到着する。
このドブ川を埋め立てて1970年開催の大阪万博に向けて、高速道路が突貫工事で建設され今日に至っているわけだが、なにを隠そうこの川こそ「自治都市堺」の平和と安住を守るために、室町時代につくられた由緒ある環濠そのものであったのである。
貴重な史跡をじゃまもの扱いにして、どさくさまぎれに破壊して開発してしまうという行政のやり方は、私の地元で十三間堀川を高速道路に変えさせたのと同じだ。

危険な情勢は変わってない

さて「50年ぶり」と表現したが、実は私にとってこの50年は、まだ昨日のように感じられのだ。
今も「坂の上の雲」を追っている私が変なのか、それとも最近同窓会がひんぱんにもたれ、永年会わなかった友人達の顔を見る機会が多くなったからか。いやそうではなく、10代の当時「再軍備反対」や「原水爆禁止」の運動を行いながらも、「もう50年もすればこんなことは昔話になるだろう」と人類の英知と進歩を確信していたのに、最近自衛隊のイラク派兵、憲法改悪、徴兵制復活の動きが強まるなか、危険な情勢は昔とあまり変わっていないと痛感していたからではないか。「歴史は繰り返す」は許してはならない。

昔の看板が残る不思議な街

その日、駅前でまず最初に私の目を引いたのは、目の前にぽつんと一軒だけある商店のガラス戸である。その店は元は理髪店であったようだが、永年営業してないということは一目でわかる。しかし、私が目を皿のようにして見つめなおしたのは、ガラス戸の内側からぶら下げられた数枚の大きなブリキの看板だ。右側に浪花千恵子左側に大村昆がそれぞれオロナミンCドリンクと軟膏の宣伝をしている顔写真。真中には赤い分厚いふちのメガネをかけた少年が「赤影とゆけ」とさけんでいる。いずれも40年位前のものであることにまちがいない。通行人をおどかすためにマニアがわざとやっている様でもなく、40年間そのままというのも信じられない。

タイムスリップで堺めぐり

あぜんとして視線を他に移すと、どうもこの辺は空襲を免れたようで、家は密集しているが、ほとんどが古い2階建で、全体に落ち着いた雰囲気があり歴史を感じさせる。まるでタイムスリップしたような奇妙なわくわくする気持ちで、私の「今昔堺史跡めぐり」は始まった。

高須神社は鉄砲鍛冶が創建

さて、高須神社であるが北側の拝殿左から、家内安全が三宝荒神、試験合格が翁天満宮、無病息災が天津社、開運厄除が弁財天・歓喜天、女性の守護神淡島社・水子供養宮、病魔退散家運隆盛の白玉竜王、家運隆盛は三輪明神・大地主宮、商売繁盛の天白稲荷。神様が効能書と共にずらりと横に並ばれており、これではまるで神様のコンビニ化ではないかと思った。
元々この神社は、「鉄砲鍛冶の繁栄を祈願して、鉄砲鍛冶年寄の芝辻理右衛門が創建した神社。理右衛門は慶長14年(1609)徳川家康の命令を受けて銃身一丈(約3メートル)口径一尺三寸(約39cm)砲弾一貫五百匁(5.6Kg)の大筒(大砲)を製造。これはわが国で造られた最初の大筒である。さらに大阪冬の陣では500丁の鉄砲を直ちに製造納入した。その功績によりこの地を拝領した」と、堺市により神社外の東側に掲示されているが、正面の鳥居から入れば意識的に探さないかぎり目に付かない。徳川幕府と堺市の特別なつながりを示す重要な神社であり、境内にかっての大筒を展示しておいてもよい位なのに、なぜか今は鉄砲とのかかわりを避けているように感じられた。