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postheadericon 阪堺電車上町線

併用軌道(北畠付近)

平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、王朝貴族から庶民にいたるまで盛んであった、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は、京都の永観堂を発ち船で天満の渡辺の津(松阪屋付近)に着いて、四天王寺、阿倍野王子神社、住吉大社、遠里小野を通過して、堺から和歌山に至るものであった。
今では、この熊野街道も住吉区に入る少し前から、府下に残る唯一の路面電車である阪堺電気鉄道上町線と平行して、しばらくは幅広い道路を南下する。

チンチン電車元は馬車鉄道

上町線は天王寺から住吉公園の間の約5キロを途中9つの駅に止まりながら、約20分かけて走り抜ける、一両編成のチンチン電車である。しかし今ではチンチンと発車の合図を送る車掌のいないワンマーカーである。
上町線は明治30年5月に、四天王寺〜上住吉間を馬が車両を引き軌道を走る大阪馬車鉄道として発足した。明治40年に電化、大正2年6月住吉公園まで開通した。

船場が成功帝塚山宅地造成

当時の沿線の状況は「住吉の岸の姫松」という、松林の茂った昼でも薄暗い場所であった。船場の繊維関係の経営者らが、このあたり一円を住宅地にしょうと「東成土地建物株式会社」をつくったが、イメージが悪くて売れない。そこでエリート教育を目指すグループと組んで、帝塚山古墳の東側に帝塚山学院を創設、大正6年5月に開校した。
土地会社の思惑は当たって、以後「高級住宅地の帝塚山」として発展して行った。

浪華の南ひと筋に
連なる丘のここかしこ
みどりの森の影清く
自然の恵みゆたかなる
野こそ我らの庭なれや
(庄野貞一詞)

これは昔の帝塚山学院の校歌だが、開校当時の付近の状況がよく現わされている。もちろん今は、大邸宅に替わって中小のマンションが林立し、帝塚山古墳や万代池等の名所旧跡も電車の車窓からでは瞬間的に見えるだけである。

上町線の魅力の秘密とは

ところが上町線の魅力の秘密は、実は最後の5分間位から始まるのである。帝塚山4丁目駅から終点の住吉公園駅までは、枕木を敷いた専用のレールの上を電車は走る。先ず、駅を離れると電車はゆるい上り坂を少し左へ曲がりながらコトコトと確かめるように登りだす。両側には草花も咲いている。終戦直後にはここで野菜をつくる人もいた。そんな思いにひたっていると、突然前方に青空が広がり始め、電車が半分飛び出したような錯覚に陥りはっとすると、電車は右に急回転して停車していた。神ノ木駅である。目の下には南海高野線が10両近く連結して驀進している。しかし、神ノ木駅は高架ではなく土手の上にしっかりと造られている。

タイムトンネルの中を行く

電車は今、上町台地の西端に爪先で立っているみたいだ。前方には急な坂が曲がりくねって待っている。地形的に高い建物は建てられないのか、風景は30年位あまり変わつていないように思う。生根神社の鎮守の森の背景に、住吉大社の鬱蒼とした森が見える。
神ノ木とは住吉大社では松の木を神木としており、近くに明治20年頃まで樹齢千年余の松の大木があったことから付けられたものである。

百年のジェットコースター

さて、電車は意を決したかのようにブレーキを外した。最初はゆっくりとすべるように動きだしたが、すぐに加速し始めた。沿線の緑が赤が黄が目に飛び込んでくる、電車は右へ大きくカーブしてその反動を使って左へまた大きくカーブを切った。ゆれる乗客、きしむ車体、レールが光って流れる。そして気が付くと、電車は住吉大社の北側の参道の前の「住吉駅」に無事着いていた。賢明な読者の皆さんはすでに感じておられる通り、これは間違いなく昔のジェットコースターである。百年前に我々の先輩はこんな素敵なものを残しておいてくれていた。毎日の生活の気分転換に、一度乗ってみては。ひょっとしたら、あなたと車内でお会いするかも知れない。
さて熊野街道の方は、帝塚山4目丁駅から上町線と離れて坂を徐々に下がり始め住吉大社の裏口、東側に達する。この辺りには歴史的な神社や仏閣が数多くあり、それぞれがほぼ昔のままの姿で今も人々に訴えていることはすごい事だと思う。また、街道の面影を残す代表的な地域でもある。

【製作委員会注】写真は Wikipedia より

postheadericon 103 高須神社

先日、私は大阪市内から堺市内にかけて走っている阪堺電車(チンチン電車)の大和川から南へ堺市内に入って2つ目の、高須神社駅に降り立っていた。
「駅」といっても、駅舎も屋根とベンチがあるだけの、囲いもなにもないもちろん駅員もいない、昔の市電の停留所とあまり変わらないところだが、最近はこれらもみな「駅」と呼んでいるようだ。
時は平日のお昼前であったが、降りたのは私一人で乗る人もなく、たった1両の路面電車は、街の裏通りの感じの専用軌道部分を、ガタゴトと自己主張をしながら遠ざかつて行った。

50年ぶりに通学路を訪問

実は私は、このもの静かな場所に立つのは50年ぶりのことになる。私は南海電車高野線浅香山駅前にある、堺市立商業高等学校に通学していた当時、登校は天下茶屋駅から高野線の各停に乗り、下校は友達の関係でよく阪堺線を利用していた。学校から西へ直線コースで約15分位か、化学工場が垂れ流す汚水の異臭が漂うドブ川を渡ってしばらく行くと、高須神社駅に到着する。
このドブ川を埋め立てて1970年開催の大阪万博に向けて、高速道路が突貫工事で建設され今日に至っているわけだが、なにを隠そうこの川こそ「自治都市堺」の平和と安住を守るために、室町時代につくられた由緒ある環濠そのものであったのである。
貴重な史跡をじゃまもの扱いにして、どさくさまぎれに破壊して開発してしまうという行政のやり方は、私の地元で十三間堀川を高速道路に変えさせたのと同じだ。

危険な情勢は変わってない

さて「50年ぶり」と表現したが、実は私にとってこの50年は、まだ昨日のように感じられのだ。
今も「坂の上の雲」を追っている私が変なのか、それとも最近同窓会がひんぱんにもたれ、永年会わなかった友人達の顔を見る機会が多くなったからか。いやそうではなく、10代の当時「再軍備反対」や「原水爆禁止」の運動を行いながらも、「もう50年もすればこんなことは昔話になるだろう」と人類の英知と進歩を確信していたのに、最近自衛隊のイラク派兵、憲法改悪、徴兵制復活の動きが強まるなか、危険な情勢は昔とあまり変わっていないと痛感していたからではないか。「歴史は繰り返す」は許してはならない。

昔の看板が残る不思議な街

その日、駅前でまず最初に私の目を引いたのは、目の前にぽつんと一軒だけある商店のガラス戸である。その店は元は理髪店であったようだが、永年営業してないということは一目でわかる。しかし、私が目を皿のようにして見つめなおしたのは、ガラス戸の内側からぶら下げられた数枚の大きなブリキの看板だ。右側に浪花千恵子左側に大村昆がそれぞれオロナミンCドリンクと軟膏の宣伝をしている顔写真。真中には赤い分厚いふちのメガネをかけた少年が「赤影とゆけ」とさけんでいる。いずれも40年位前のものであることにまちがいない。通行人をおどかすためにマニアがわざとやっている様でもなく、40年間そのままというのも信じられない。

タイムスリップで堺めぐり

あぜんとして視線を他に移すと、どうもこの辺は空襲を免れたようで、家は密集しているが、ほとんどが古い2階建で、全体に落ち着いた雰囲気があり歴史を感じさせる。まるでタイムスリップしたような奇妙なわくわくする気持ちで、私の「今昔堺史跡めぐり」は始まった。

高須神社は鉄砲鍛冶が創建

さて、高須神社であるが北側の拝殿左から、家内安全が三宝荒神、試験合格が翁天満宮、無病息災が天津社、開運厄除が弁財天・歓喜天、女性の守護神淡島社・水子供養宮、病魔退散家運隆盛の白玉竜王、家運隆盛は三輪明神・大地主宮、商売繁盛の天白稲荷。神様が効能書と共にずらりと横に並ばれており、これではまるで神様のコンビニ化ではないかと思った。
元々この神社は、「鉄砲鍛冶の繁栄を祈願して、鉄砲鍛冶年寄の芝辻理右衛門が創建した神社。理右衛門は慶長14年(1609)徳川家康の命令を受けて銃身一丈(約3メートル)口径一尺三寸(約39cm)砲弾一貫五百匁(5.6Kg)の大筒(大砲)を製造。これはわが国で造られた最初の大筒である。さらに大阪冬の陣では500丁の鉄砲を直ちに製造納入した。その功績によりこの地を拝領した」と、堺市により神社外の東側に掲示されているが、正面の鳥居から入れば意識的に探さないかぎり目に付かない。徳川幕府と堺市の特別なつながりを示す重要な神社であり、境内にかっての大筒を展示しておいてもよい位なのに、なぜか今は鉄砲とのかかわりを避けているように感じられた。