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西区の埋もれた堀と川
天正十一年(一五八三)四月、豊臣秀吉が大阪城を築きはじめ、城下町の建設に着手したことから、西区は次第に開けてきた。慶長六年(一五九六)には西横堀川が開削され、つづいて阿波堀川も通じた。道頓堀川も元和元年(一六一五)には完成した。
大阪夏の陣の後、大阪城代に任じられた松平忠明によって、元和三年には土佐堀川の南に江戸堀川、さらにその南に平行して京町堀川も開通した。
寛永元年(一六二四)には、靭・天満の塩魚商人らは幕府の許可を得て、阿波堀川と京町堀川に通ずる海部堀川を開削、翌寛永二年には長堀川が、同三年には阿波堀川と西長堀川の間に立売堀川が、同七年には薩摩堀川がそれぞれ完成している。
元禄十一年(一六九八)には、開発のおくれていた長堀川と道頓堀川の中央東西に、堀江川ができた。
このようにして西区の地域一帯は開けていったが、堀川の沿岸には二十五藩もの蔵屋敷が設置され、「天下の台所大阪」を支えていた。
小西来山が「すずしさに四橋をよつわたりけり」とよんだのは、旧長堀川・西横堀川に架かっていた炭屋橋・古野屋橋・上繋橋・下繋橋の総称で、四っの橋が東西南北に交差する二つの川に井桁状に架かっている面白さから、浪花の名物であった。天保八年(一八三七)幕吏に追われた大塩平八郎父子が、船で逃走中に四つ橋の下で刀を河中に投げ捨てた話は有名である。
やがて時代の波が
江戸時代から長く地域の交通を支え、水の都の基盤となっていた西区のこれらの堀川も、市電・市バス・地下鉄などの普及と、自動車の急増により、昭和二十六年頃から埋め立てられ、昭和四十八年の旧西長堀川を最後としてほとんど姿を消してしまった。
十二の堀川と共に百十二の橋も運命を共にした。
大阪大空襲でほぼ全滅
西区の街の姿は、昭和二十年三月の大阪大空襲で区内がほぼ全滅したことと、戦後の堀川の埋め立てにより大きく変わった。昔の面影を止めているのは、土佐稲荷神社とあみだ池、川口キリスト教会堂と、九条新道商店街西側の路地ぐらいである。
しかしいずれにしても、この地が過去数百年にわたり、大阪の経済、文化、ものづくりの中心であり、わが木津川のスタート地点であるということを、多くの人に知ってもらいたい。
休日ともなれば、静かな高層ビルとマンションのこの街に、かって人々のエネルギーが激しくもえさかえていたということを。
西区での町名の由来
靭(うつぼ)
靭という名の由来は、豊臣秀吉がある日、お供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で魚を売っているのを耳にして「やす(矢巣)とは靭(矢を入れる道具)のことじゃ」といったので、その言葉にあやかって「靭」という町名が付けられたという。
京町堀(きょうまちぼり)
大阪冬の陣・夏の陣後、大阪城主松平忠明の人口来住政策に呼応して、伏見京町から移住してきた町人らが開発した町域であることに由来する。
土佐堀(とさぼり)
町域が大川の分流である土佐堀川左岸に沿って位置することに由来する。
この付近は、豊臣期に土佐商人の群居した「土佐座」の地といわれ、これによって河川名を「土佐堀川」と名付けたと伝えられている。
川は流れて
西区は、淀川によって沖積された大阪平野の西部に位置する。面積は五・二○平方キロメ−トル。区の東北側を土佐堀川が西流し、堂島川と合流して安治川となり、またこの合流地点から、区の中央を木津川が南北に流れている。川の交差点であり、こんな大河の場合はめずらしい。
近代歴史の開花処
「西区は、近世には諸藩の物資集散地として『天下の台所』大阪の経済的基盤を支えると共に、多くの文化人を輩出した由緒ある地であり、近代には外国人居留地を通じて新文明流入の門戸となり、造船を中心とした鉄工業の繁栄をもたらし、わが国工業の発祥の地でもあった」と区長は「西区の史跡」に書いている。西区の史跡は約六十もあり他区と比べても多い。
しかし、残念ながら、西区は五十六年前の大阪大空襲でほとんどの所が焼け野が原となり、今残っているのは石の碑ということが多い。
しかし、残念ながら、西区は五十六年前の大阪大空襲でほとんどの所が焼け野が原となり、今残っているのは石の碑ということが多い。
変わらない川の流れ
その中で、唯一変わらないものは、やはり川の流れであろうか。端建蔵橋に立って中ノ島の方を見れば、高層ビルを押し退けるようにして、土佐堀川と堂島川が左右から迫ってきて、緊迫感があって面白い。明治の青年たちもここで何かを感じて、激動の歴史の中を自分で歩いて行ったのではないか。
振り返って、安治川のはるか河口の辺りを見渡せばば、西日に映えてなつかしい町工場や商店、二階建の家並みもあちこちに残っていて、心が癒される。
大河の交差点
土佐堀川と堂島川がここで合流し、安治川と木津川に、そして尻無川がまた分かれていく。いずれも満々と水をたたえている。
「水の都大阪」という実感が文句なしにする。そしてこの絶大なエネルギ−を誘導し無事に海に帰らせるために、昔から人々がいかに奮闘してきたかが思いやられる。
西成・木津川百景めぐり西区の巻は、汐見橋線で終点汐見橋駅まで来て、大阪ドーム前を通って松島公園で休憩して、あとは木津川と安治川に架かる木津川橋・昭和橋・端建蔵橋・船津橋・上船津橋・湊橋などの橋の渡り放題コースがユニークではないか。時期は春か新緑の頃。
◆西区での町名の由来
阿波座(あわざ)
古くから阿波(徳島)の商人たちがこの地に住みついて座をつくり商いなどをしていたことに由来する説と、当地が阿波屋(西村)太郎助の所領地であったことからだとする説の二説がある。
立売堀(いたちぼり)
大阪冬の陣・夏の陣の時に、伊達家がここに濠を堀り陣地としていたが、その跡を堀り進んで川としたことから始めは伊達堀(だてぼり・後に、いたちぼり)と呼んでいた。その後沿岸で材木の立売(たてうり)が許されたため字は立売堀と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた。
江之子島(えのこじま)
古来、難波江の児島・難波江の小嶋などと呼ばれていたのを、のち難波の冠字を略したという説と、もと犬子島と呼ばれていた所が転じて江之子島となったという説がある。

