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紹鴎(じょうおう)の森

2月3日午後5時より、関西芸術座の新稽古場落成記念パーティーが、岸里東2丁目3番地の住吉街道に面した新築ビルで行われるとのことで、少し早めに出掛けていった。
関芸は西日本を代表するブロの新劇の劇団で、永年阿倍野区の文の里にあったが、今度阪和線高架化の予定に伴い、西成区へ移転して来たのである。新稽古場は三階建で2・3階吹き抜けのステージには200席の観客席もつくることが出来て、前のより約二倍の大きさだという。そして新稽古場の東側には有名な紹鴎の森と天神の森天満宮がある。

<武野紹鴎の銅像は堺にある>

天満宮を勧請した武野紹鴫は文亀2年(1502)生まれ。父は堺の豪商、子供を何とか武士にしようとしたがむしろ学芸を好み、特に茶道には熱心でその才能抜群、29才のとき茶道に専念したいため惜し気もなく地位を捨て剃髪。その後住吉大社の北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道は、この付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鴎は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの社を紹鴎の森と呼ぶようになった。
紹鴎は茶の眼目に「和敬静寂」の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた。しかし武野家は紹鴎が54才で没してからは、数奇な運命をたどる。
武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず25才のとき織田信長に父の遺晶「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、29才でやっと茶道の宗家を継いだものの、天正16年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵晶すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長19年(1614)65才病没するが、その場所は定かでないという。(西成区史)
大阪府保存樹の大楠をはじめ、巨老木が天満宮の境内にうっそうとし、菅原道真公が現れ出ても不思議でないふんいき。私は少し夢をみてみる。

<西成のロビンフッドか>

まず武野親子は時の暴君らが無理難題をふっかけてくるのは予想済ではなかったか。むざむざと名器をすべて差出し、しかも追放を受けるのなら、偽物を提出し本物は秘匿する抵抗を行なったのではないか。紹鴎の鑑識眼は最高のものだったはずである。宗瓦はこの紹鴎の森の奥深く、住民に守られながら権力者共の有為転変を冷やかに見て、案外気楽に生涯を送ったのではないか。そう思えば先日の地震で落ちた瓦のガレキにまじっていわくありげな古茶碗のかけらが足元にある。
私の夢はここで終わって、もう五時、そろそろ関芸のパーティーに出席せねばと思ったとき、阪堺線天神ノ森停留所からこちらに二人の「刑事」が歩いてくる。雰囲気でわかる。ぼんやりと見ていると足早く過ぎて行った。
カット関芸の稽古場ビルは本当に立派なものだった。これだけのものを民間の力でつくり上げたことに敬意を表したい。そして、私達を入口に並んで迎えてくれた劇団員の幹部の中に先程の二人の「老刑事」も居たことにびっくりした。かつてのテレビドラマ「七人の刑事」の出演者であったのだ。これで西成の新劇の劇団が「潮流」に続いてニつになった。私の理想である「文化・スポーツの盛んな街、西成」に一歩近づいたことになるように、みんなで協力しなければと思った。

(1995年2月記)