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旧市電通
「旧市電通り」とは、昭和2年に阪堺電鉄が芦原橋から堺三宝間までチンチン電車を開通させていたのを、昭和19年大阪市がこれを市電として買収し、昭和43年まで主として沿線の工場労働者の通勤電車として走らせていた、府道尼崎堺線のことをさす。西成区内には、北津守・鶴見橋通・津守神社前・宝橋通・南津守・造船所通という停留所があった。 南津守停留所を東に行けば飲食店の立ち並ぷ小さい商店街があり、その北側に日本共産党木津川地区委員会の白と焦茶のツートンカラーという瀟洒な三階建の事務所があった。
造船所通り停留所から名村造船所への近道として、細い道を西へ行けば両側に池があり、夜勤帰りの労働者がよく釣り糸をたれていた。その近くの芦原に「1坪2千円」とかかれた大看板が出ていた。当時月給が1万円程度であったと思う。 年末ともなれば市電通りのあちこちの工場の前に赤旗が立ち、腕章をはめた労組員がビラを配るのが見慣れた風景。川筋の「師走」。
今から20数年前は、「津守格差」といわれる位、市電通りをはさんだ一円は行政サービスの立ち後れた地域であった。南津守商店街の有志と共に「南津守をよくする会」をつくり、十項目の地域要求の実現を目指して住民運動を展開した。その成果として、干本松渡船の存続・浸水の抜本対策・道路舗装・上下水道・児童公園の建設等がある。
今日では津守一帯も大きく変化した。主な企業は移転・倒産でなくなり、一部は住宅地になった。あの、労働者で沸き立っていた、「木津川筋」という独特の世界は今はない。そして、大阪でも屈指の自動車公害の道路と化した旧市電通り沿道の住民は、新たな要求をかがげて結集しつつある。(1991年9月)
