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吉田兼好の藁打ち石
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聖天山正円寺の南坂参道入口に、「兼好法師隠棲跡碑」と「兼好法師藁打石」がある。
吉田兼好とは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で、本名は卜部(うらべ)兼好。京都吉田に住んだのでこの姓を称す。19才で二条天皇に仕え、20代の半ばに従五位下左兵衛佐に任じられるなと早い出世で、すでに歌人としても認められていたようである。その後、彼が何故、いつ出家したのか。名作「徒然草(つれづれぐさ)」はいつ、どこで書いたのか、ほとんど判っていない。正平五年(1350)67才没といわれる。
兼好が密勅を北畠顕家へ
通説では、南北朝の争いで、当時伊賀で暮らしていた兼好が、南帝の密勅を受けて奥州の北畠顕家のもとへ赴いた。その後、顕家が高師直と戦って阿倍野で討死をすると兼好は大変悲しんで、顕家討死の場所のほとりに庵を構え、命松丸という童と寂閑という僧の3人で、藁を打ち筵を織って生計を立て、読経三昧に菩提を弔ったという。
そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応6年以後となり、55才の頃となるが、顕家はこの年の3月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死してはおらず、同年5月22日、南へかなり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。
兼好阿倍野説を唱える根拠
当時、兼好の庵の辺りは手塚(帝塚)山古墳をはじめ大小さまざまの古墳が丘をなし、西には聖天宮があり玉出の浜も近く、活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物もゆたかにある。また100年ほど前まではあれ程栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道も、今では草原の中にあり、往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
「徒然草」の中に一段だけ政治を批判したものがあり、その内容は、後醍醐天皇の「建武の中興」や「王政復古」の実態が、庶民のくらしをいかに痛みつけているかということを、厳しく指摘したもので、権力から弾圧されるおそれさえある内容のものである。
「徒然草」の中に一段だけ政治を批判したものがあり、その内容は、後醍醐天皇の「建武の中興」や「王政復古」の実態が、庶民のくらしをいかに痛みつけているかということを、厳しく指摘したもので、権力から弾圧されるおそれさえある内容のものである。
かって、北畠顕家と楠木正成が政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするななどと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するため、負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諌言したものと、兼好の一文は同じ立場のものである。
伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為を公然としなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。
圧政に悲憤慷慨した兼好
兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を400メートルほど西へ入った所にあった。「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根元に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも恐がっていたという。
【追加資料】
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