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住吉街道
「西成区史」によれば、西成区は天王寺区、阿倍野区などの高台に展開された集落とは異なり上町台地西側の低地帯に属し、中世時代まではおおむね海浜とみられた地であった。すなわち北部の旧村今宮の古名といわれる津江の庄にしても、南部の旧村玉出の別名古妻浦、さらには隣村粉浜などの村名をみても、あるいは最近まで町名に残っていた入船町・今船町・曳船町・甲岸町・海道町などからみても、昔海浜であったことが容易にうかがえる、となっている。
<わが町も昔は海浜>
昔海中または、よくあしのしげる浅州であったものが、玉出については、仁治年中(1240~1243)里長某がこの地を開さくして住吉神社の神領としたにはじまるとされている。万葉集などで詠まれた名児之浜、奈呉の浦ないし敷津の浦などは西成区一帯の海とみられる。
住吉之名児之浜辺に馬立てて玉拾いしく常忘らえず
もしほ草敷津の浦に船とめてしはしは間かん磯の松風
こうした梅浜に点々とした漁農村伏態であったのが、足利時代(1338)より陸地化が進み、大坂に入る軍事上要衡の地として今宮・木津・勝間等の名が盛んに史書に出るようになった。
足利時代末期に上町丘陵を走る阿倍野街道に代わって、新たに大坂より堺に至る往来路として低地を走る住吉街道(紀州街道)の出現を見たことは、西成区内の発展に多大の影響を与えた。この道は堺筋を南へ日本橋を渡り長町をすぎ、行き当りを西へ一丁行き、今宮札の辻(現在の恵比寿町交差点の西、一番目辻)から南へ今宮新家、天下茶屋、住吉新家(現在の西成警察署、北天下茶屋市場、塚西交差点辺り)、安立を経て堺・紀州に至るものである。豊巨秀吉も住吉神社あるいは堺政所往還の途中、利体その他の臣下を従え天満宮紹鴎社(現在の岸里東2丁目)付近の茶屋に休憩し、このために太閤殿下が憩われたとの故事から殿下茶屋、さらに天下茶屋の名が出たといわれる。
摂津名所図会には「その頃は街道沿いは未だ海岸線に近く、白砂青松の風景を愛でながら住吉の詣人は道草に時をうつし、堺の魚荷は徒歩はだしにて宙をかけり、浪華より紀泉両国の新通路として旅人の往来絶ゆることなし」と伝えられている。
恐らく紀州の殿様徳川吉宗も、この街道に馬を走らせ胸踊らせて江戸城に入り、八代将軍に成ったことであろう。
<住吉街道ゆかりの人>
私にとって住吉街道と言えば、故西口喜代松氏につながる思い出が数多い。天下茶屋1丁目1番地(旧今船町)で、戦後いち早く日本共産党の看板を掲げて活動を始めた氏の自宅は住吉街道に面していた。10年位前まで、30年以上も共産党の事務所や赤旗新聞の販売所として、表の間を使わせて貰っていたが、地元だけでなく車からもよく見えるので、知る人も多かった。
西口氏は1977年6月、70才で亡くなるまで、選挙の時は中心になって今宮小学校の講堂を満席にする位の力があり、誠実・率直・ユーモアに富んだ人柄は党派を越えて支持されていた。元大阪市会議員四方棄五郎氏の西口氏追悼文の一節を次に紹介する。
「西口氏のモーターバイクで赤旗新聞を配る、あの颯爽とした姿はもう見られなくなりました。かつて重税と差し押えの嵐が吹き荒れた時、自殺した業者の抗議の葬儀を西成税務署前で行い、責任者として逮捕されたこともありました。戦後30年間、西口氏は西成のこの町で人々のよき相談相手とし、また環境を守るための住民運動など、様々な問題に取り組まれ、その足跡は極めて大きなものがあります。遺志を受け継ぎ前進を誓います。」
(1995年9月記)


「西口氏のモーターバイクで赤旗新聞を配る、あの颯爽とした姿はもう見られなくなりました。かつて重税と差し押えの嵐が吹き荒れた時、自殺した業者の抗議の葬儀を西成税務署前で行い、責任者として逮捕されたこともありました。戦後30年間、西口氏は西成のこの町で人々のよき相談相手とし、また環境を守るための住民運動など、様々な問題に取り組まれ、その足跡は極めて大きなものがあります。遺志を受け継ぎ前進を誓います。」