ようこそ!西成・木津川百景へ!
私は、若い時からの活動の拠点であり、人情厚い西成のまちをこよなく愛しています。日本共産党府会議員としての活動も、その原点があるが故です。郷土愛の一環として、郷土史の研究として、いままで数冊の小冊子を刊行し、一時期、ホームページで公開したこともありました。今回、機会を得たので、改めてこのサイトにて、ご披露したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。記事は、ほぼ執筆当時のまま掲載します。したがって、現状にそぐわない点があることをお断りします。カットや背景画像は、勝田忠保さんや西成区在住の米沢俊さんのスケッチなどを使わせていただきました。掲載の快諾にお礼申し上げます。では、大勢の方のご閲覧を心からお待ちいたします。
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いま「逆転の日本史観」がひろがっています。特に「古代史観」の変化では文句なしに面白くファンが急増しています。私も以前から「逆転の郷土史観」に取り組み、さまざまな謎に迫ってまいりました。今回、以前の2つのサイトから復活した原稿を掲載します。発行された小冊子からも順次掲載してゆきます。
- 旧「西成医療生協ホームページ」より
- 旧「がもう健ホームページ」より
| ●木津川 | ●安養寺 |
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| ●由緒ある西成区名 | ●紹鴎(じょうおう)の森 |
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宝泉寺・十三仏
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平安、鎌倉時代に盛んであった「蟻の熊野詣」の熊野街道も、今では路面電車や自動車の行き交う基幹道路となり、その面影は阿倍野区では阿倍清明神社や阿倍野王子神社辺りに少し残るだけである。
しかも、住吉区に入れば帝塚山周辺はマンションがでこぼこに建ち並び、かってのお屋敷町としての趣は無く、わずかにチンチン電車だけが少しレトロな気分にさせてくれる位だ。
「神ノ木」から史蹟ゾーン
上町線の帝塚山4丁目駅から、たった1両の電車が左右にカーブしながら、心もとなげに坂を登り、次の「神ノ木」駅へと姿を消していくと、後には街道だけが残った。
熊野街道はこの辺りから線路とは逆に少し下り坂となり、一層何の変哲もない道路を南下する。しかし、南海電車高野線の踏切を越えて左に曲がり少し行きだすと、沿道の雰囲気は段々に変わってくる。それもそのはず、この辺りは江戸時代から、足利、南北朝、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、古墳、そして神代の時代に至るまでの史跡が、大和川までの約1里(4キロメートル)の熊野街道を中心にして「密集」しているのである。
誰でも「懐かしく思う町」
郷土史愛好家がもしこの地に足を踏み入れたなら、「なぜ」「なぜ」の言葉を連発し、しばしぼうぜんとするにちがいない。なんとなれば、これだけの「一級品」神社、仏閣、文化財、史跡が戦前の姿のまま現存し、しかもそれらの多くが今も活発に、何百年来の活動を続けている。また、それぞれが、おそらくは経済的には悪戦苦闘しながら、拝観料等は一切取らず、万人に独自の景観を提供し、森や大樹を保護育成し、環境にも永年にわたり貢献してきている姿を見るからである。
しかも、周辺の酒屋、米屋、味噌屋等の商店が、江戸時代のままの店舗を残してくれていることにも感激させられる。しかもそれぞれが盛業中である。 実は、これらの家には、かって絶世の美少女がいたし、スポーツ万能の少しはにかみやの好少年がいた。共に私の、終戦直後の新制中学2期生の懐かしい同級生である。
いつか「大阪南部百景」を
上町台地の北側には大阪城があるが、その以前は石山本願寺であり数多くの神社・仏閣がそれを取り巻いていた。今ある「寺町」は徳川幕府の戦略として、その後強制的に集められたものである。台地の中央部には四天王寺がそびえ建ち、前方の夕日が丘を中心にして、有名な神社や寺院が今も信者をあつめ、観光客を呼んでいる。
そして、上町台地の南側には、住吉大社の背後を固めるようにして、空襲に会っていない何十という神社やお寺が、適当な距離を置いて存在し、それぞれの地域に根付いて活動しているのである。中には住吉大社よりも古い歴史を持つものもあるという。
私は機会があればぜひとも、「上町台地南部百景」なるものを書いてみたいと真剣に思う。
十三仏は太閤の忘れ石から
今回はその中から、宝泉寺・十三仏を紹介する。
この寺院は、万年山と号し、平野大念仏寺派末。寺伝によると、惠心僧都が42才の厄除けのため、天元5年(982)に融通念仏宗の念仏堂を創建したことに始まる。本尊阿弥陀如来像は惠心自作と伝える。元亀2年(1571)宝泉上人が本堂を建立、現在の寺名になった。堂宇は元和元年(1615)大阪の陣で焼失、寛永11年(1634)再建、その後修復を繰り返している、という。
宝泉寺の前を行き過ぎようとして、ふと視線を感じて振り返ると、街道沿いにあるお堂のような中に人影がする。近付いてみるとお堂には「住吉名所十三仏」と書いてあり、等身大の石仏が13体ずらりと街道に面して並んでいる。「立派な」と思わず声を上げてしまう程、見事な、傷一つない仏たちである。
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勤菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿門(しゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩等である。
七福神が生きている間の守り神であるように、十三仏は死後の世界の救済者である。これだけの本尊を網羅すれば、救われること疑いなしとする気持ちのあらわれである。
十三仏の石材は、この付近から出土したものと伝えられるが、一説には豊臣秀吉が大阪城築城に際して集めた巨石が、何かの事情で置き去りにされたのを、13に割って活用したと云われている。16世紀後半の作と推定される。
一度洗ってあげたい十三仏
実は、十三仏が沿道のほこりにまみれて、特に頭や肩の部分が黒くなっているのである。露天であれば雨で洗われるが、お堂の中なのでそうはいかない。仏像を洗うということは、いいことかわるいことかは知らないが、水掛け不動さんの例もあることだし、いつも由来書等を気安く下さる住職に、今度こそ勇気を出して聞いてみようと思う。
【追加資料】
Google 地図(住吉東駅からの道順)
【製作委員会注】写真は 「車椅子で地元の名所旧跡めぐり」より
阪堺電車上町線
平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、王朝貴族から庶民にいたるまで盛んであった、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は、京都の永観堂を発ち船で天満の渡辺の津(松阪屋付近)に着いて、四天王寺、阿倍野王子神社、住吉大社、遠里小野を通過して、堺から和歌山に至るものであった。
今では、この熊野街道も住吉区に入る少し前から、府下に残る唯一の路面電車である阪堺電気鉄道上町線と平行して、しばらくは幅広い道路を南下する。
チンチン電車元は馬車鉄道
上町線は天王寺から住吉公園の間の約5キロを途中9つの駅に止まりながら、約20分かけて走り抜ける、一両編成のチンチン電車である。しかし今ではチンチンと発車の合図を送る車掌のいないワンマーカーである。
上町線は明治30年5月に、四天王寺〜上住吉間を馬が車両を引き軌道を走る大阪馬車鉄道として発足した。明治40年に電化、大正2年6月住吉公園まで開通した。
船場が成功帝塚山宅地造成
当時の沿線の状況は「住吉の岸の姫松」という、松林の茂った昼でも薄暗い場所であった。船場の繊維関係の経営者らが、このあたり一円を住宅地にしょうと「東成土地建物株式会社」をつくったが、イメージが悪くて売れない。そこでエリート教育を目指すグループと組んで、帝塚山古墳の東側に帝塚山学院を創設、大正6年5月に開校した。
土地会社の思惑は当たって、以後「高級住宅地の帝塚山」として発展して行った。
浪華の南ひと筋に
連なる丘のここかしこ
みどりの森の影清く
自然の恵みゆたかなる
野こそ我らの庭なれや
(庄野貞一詞)
これは昔の帝塚山学院の校歌だが、開校当時の付近の状況がよく現わされている。もちろん今は、大邸宅に替わって中小のマンションが林立し、帝塚山古墳や万代池等の名所旧跡も電車の車窓からでは瞬間的に見えるだけである。
上町線の魅力の秘密とは
ところが上町線の魅力の秘密は、実は最後の5分間位から始まるのである。帝塚山4丁目駅から終点の住吉公園駅までは、枕木を敷いた専用のレールの上を電車は走る。先ず、駅を離れると電車はゆるい上り坂を少し左へ曲がりながらコトコトと確かめるように登りだす。両側には草花も咲いている。終戦直後にはここで野菜をつくる人もいた。そんな思いにひたっていると、突然前方に青空が広がり始め、電車が半分飛び出したような錯覚に陥りはっとすると、電車は右に急回転して停車していた。神ノ木駅である。目の下には南海高野線が10両近く連結して驀進している。しかし、神ノ木駅は高架ではなく土手の上にしっかりと造られている。
タイムトンネルの中を行く
電車は今、上町台地の西端に爪先で立っているみたいだ。前方には急な坂が曲がりくねって待っている。地形的に高い建物は建てられないのか、風景は30年位あまり変わつていないように思う。生根神社の鎮守の森の背景に、住吉大社の鬱蒼とした森が見える。
神ノ木とは住吉大社では松の木を神木としており、近くに明治20年頃まで樹齢千年余の松の大木があったことから付けられたものである。
百年のジェットコースター
さて、電車は意を決したかのようにブレーキを外した。最初はゆっくりとすべるように動きだしたが、すぐに加速し始めた。沿線の緑が赤が黄が目に飛び込んでくる、電車は右へ大きくカーブしてその反動を使って左へまた大きくカーブを切った。ゆれる乗客、きしむ車体、レールが光って流れる。そして気が付くと、電車は住吉大社の北側の参道の前の「住吉駅」に無事着いていた。賢明な読者の皆さんはすでに感じておられる通り、これは間違いなく昔のジェットコースターである。百年前に我々の先輩はこんな素敵なものを残しておいてくれていた。毎日の生活の気分転換に、一度乗ってみては。ひょっとしたら、あなたと車内でお会いするかも知れない。
さて熊野街道の方は、帝塚山4目丁駅から上町線と離れて坂を徐々に下がり始め住吉大社の裏口、東側に達する。この辺りには歴史的な神社や仏閣が数多くあり、それぞれがほぼ昔のままの姿で今も人々に訴えていることはすごい事だと思う。また、街道の面影を残す代表的な地域でもある。
【製作委員会注】写真は Wikipedia より
田ノ川子安地蔵尊
私は盆踊りが大好きだ。
あの終戦直後のこと、人々はまるで何かに付かれたように、各町会で勝手に道路に舞台をつくり、素人芸能大会などを行なった。戦時中は冷遇されていた芸人達が、引っ張りだこで、かけもちをやっていた。
工場の食堂は、夜は社交ダンス場に早替わりした。労働者も地域の商人も、一緒になってステップを踏んだ。子供が見物していても誰も怒らなかった。子供にも楽しむ権利が有ると、思っていたのかもしれない。
いたるところで盆踊り
夏に盆踊り大会だ。あらゆる空地が会場になった。 誰の顔色をうかがうこともなく、踊りたければ勝手に輪の中に入っていける。今までは考えられなかったことだった。
「踊る阿呆に見る阿呆おなじ阿呆なら踊らな損々」が、目の前で実際に行われている。「これが平和というものなのか」と、私は子供心にも感じるものがあった。今から思えばあの時の衝撃が、私のその後のささやかな平和運動の原点かもしれない。
私は「踊る阿呆」
私は、どちらかといえば踊る阿呆の方で、区内の大きな盆踊り大会には、友達を誘ってほとんど参加していた。ついに、高校一年の時には、南海本線泉大津駅前での市あげての徹夜の盆踊り大会にもぐりこみ、夜明けに海水で顔を洗って、始発電車で帰って来たことを今でも鮮明に記憶している。しかし、さしもの盆踊りブームも、テレビの普及と共に大きく後退していった。
着実につづく盆踊り大会
今年も西成区では千本、玉出、弘治校下などで街おこしとして盛大に行なわれたし、私達が主催者の一員でもある「平和盆踊大会」が、最近の十数年間は松通公園で連続して開催されている。もちろん私は今年もそのすべての大会におじゃまをして、心ゆくまで踊らせていただいた。
閻魔地蔵尊六道の辻
私は八月の下旬にしんみりとやられる、地蔵盆での盆踊りにはひとしおの思いを持っている。それは、東粉浜の閻魔地蔵尊前の七つ辻の一角に、戦後十数年間住んでいたことによる。
毎日のように、子供が連打する鐘の音、お百度参りのお経、ローソク台のゆれる灯りと、線香の煙と香。地蔵盆にはそれに加えて、山伏の祈祷と天井をなめる炎、露店の呼び声とカーバイトの光。そして、しなよく踊る娘達の足元で、秋の虫が鳴きだしていた。
田ノ川子安地蔵尊の由来
私は今年も近所の「田ノ川子安地蔵尊」の盆踊りに参加した。私は今回は踊りだす前に、お地蔵さんのお姿をつくづく眺めて、地元の方に日頃から疑問に思っていることを聞いてみた。
それは、田ノ川地蔵さんは中学生位の大きさであるが、坊主頭に右手に錫杖、左手に宝珠という本来の地蔵さんのスタイルとも少し違うし、全体として傷みがはげしく、石にしては重みが無さそうなので、思い切って「このお地蔵さんは、昔々田ノ川に流れ付いたのかなにかですか」と。
事実、お地蔵さんが流れて来たという話は多い。閻魔地蔵は難波の浜に流れ付き、空襲除けで有名な天下茶屋の波切不動尊は津守新田から掘り出されたことになっている。
戦跡として語りつぐこと
ところが私のちょっと失礼な質問に対して、地元の人の答えは「あの地蔵さんは、息子さんを戦死させた左官屋さんが自分でセメントを塗ってつくったものだと聞いています。だいぶ傷んでますが大切にしたいと思っています」というものだった。
田ノ川とはこの近くを東西に流れていた川で、明治時代にはまだ水がきれいで「水屋」が売るために汲みにきていたという。実は、玉出町(旧勝間村)を全滅させた大空襲の北限が田ノ川付近であり、盆踊りをする広い道路は戦災復興区画整理事業の結果だということも、その時に地元の人に聞いた。
戦争の惨劇を風化させないことも、郷土史研究の大切な仕事だとしみじみ知った、今年の長い長い夏であった。

